体#80【五月病:最終章】胃潰瘍になった私。

体のこと

私の五月病は胃潰瘍だった!

第二地方銀行に就職が決まっていた私は、私立高校を3月1日に卒業し、2週間後には入社準備の研修が始まっていました。それはとてもハードスケジュールで、大阪本社研修/自宅から比較的近い支店での実習/滋賀県にある社員保養所での宿泊研修など短期集中型でした。

2週間の研修を終えた翌日が入社日兼入社式で、その後に配属辞令が出ます。私が銀行に入社した年は、4月1日が日曜日で4月2日入社でした。4月1日が誕生日の私は、自宅から2時間かかる本社の入社式に遅刻せずたどり着くことだけを考え、緊張感でいっぱいでした。

私の五月病は、おそらく入社式当日からじわじわ始まっていた気がします。実は、絶対に行きたくない支店があったのですが、頭取からひとりずつ受け取った辞令書に、その支店名が記載されていたのです。絶望感に襲われた私は、頭取をちょっと睨んだ気がします。

辞令後は配属支店に向かうのですが、高卒120人採用にも関わらず、総支店数は70店舗を超えており配属は私一人でした。

当時は携帯電話も無く、最寄駅は把握できたものの下車後の行き方が分からず、自営業をしている父に公衆電話から連絡をし、配属先までの交通手段を聞きました。行きたくなかった支店に配属されたことを知った父は、電話越しに大笑いし、まぁ頑張れ!と。

行きたくなかった理由は後で述べるとして…。

今の時代、すべて「パワハラ」認定され、指導者は注意すらできないおかしな状況になっています。私も5月早々に胃潰瘍になりましたが、振り返ってもパワハラだとは思っていません。たとえ高卒でも、そこに理不尽さがないことは分かります。ただ、アルバイト経験もないまま、高校生からたった2週間で上下関係のある社会人になってしまっただけのこと。右も左も分からない、すべてが初めてだっただけのこと。

胃潰瘍の原因は、季節変化と、配属支店の立地が嫌すぎたことに加え、営業後に毎日受けた更衣室でのお説教ではないか?と思います。でもそれはパワハラではなく、指導でした。

15時でシャッターが閉まり集計が終わった頃、胃がキリキリと痛み、背筋も伸ばせません。私の変化に気づいてくれたのは、子育てを経験している元職員のパートさんと先輩でした。病院へ行くように毎日うるさく言われて行ってみると、胃潰瘍という診断でした。数ヶ月間の飲み薬で治った気がします。

銀行業務は昔も同じで、15時にシャッターが閉まった後に、20分間の戦争タイムがやってきます。国庫金や地方に納める税金関係の集計や、全国や海外に飛び交った資金の突合です。本当に1円の誤差も認められません。自分の財布ではなく、国や皆さまの財産ですからね。

あの当時は、お客さまも新人を温かく見守ってくれ、時には人生経験の先輩として注意もしてくださいました。窓口から色々なことが「丸見え」ですからね、お客さまである前に、先輩としてたくさんの注意をいただきました。同時にたくさんの失敗も許してくださいましたし、ノルマの協力もしてくださいました。

さて、配属支店が嫌すぎた理由はただひとつ。実は、配属支店近辺は発砲事件が度々起こる、治安が悪い地域だったのです。配属初日の説明でも、最寄駅から徒歩圏内だが絶対にバスに乗って通勤するように言われた程です。そう、危険だから歩くなということですよ。ね、怖いでしょ。

実はまだあって、忘れもしない中学の体育祭の日の朝、通学途中にあるレストランで発砲事件があり、死亡者が出たのです。家を出た時には警察ヘリが飛び、レストラン前には黄色い立ち入り禁止テープが貼られていたので、事件直後だったと思います。その数年後に実家ごと、茶畑と緑の多い宇治市に転居したので平和だったのです。それがまた発砲事件多発市域に勤務することが嫌でした。

辞令を受けた支店で8年超、内勤窓口1年、融資課7年と転勤を経験せぬまま、同じ支店での8年勤務はかなり異例のことでしたが、支店への愛着心を残し、家業を手伝うため退社しました。

その8年間の間に、本当に発砲事件があり死亡者も。しかし今でもあの辞令書と、支店で開設した初口座は宝物で残しています。そして当時の同期とは今でも交流があり、また大切なお客様でもあります。上司や後輩とは忘れた頃に集まったり、年賀状で近況を伝え合っています。1990年入社なので、かれこれ35年のお付き合いです。


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